早いものだ・・・。
思えば、僕が高3の時に仙台の川内にあったミニコミ誌の事務所で知り合ったのが最初だった。今から47年も前になる。
長髪に丸眼鏡、ちょっとレノンを意識したような風貌で、出演バンドというグループを結成して音楽活動をしていた。
250CCのバイクに乗っていて、彼女もいて、なんだかかっこいいなあ!と感じた。
それから彼らの出入りする楽器屋で頻繁に合うようになって、自分もグループを組んで音楽活動を始めた。
それから彼のアパートへ遊びに行ったりして、音楽の話、バイクの話、女の話に花が咲いた。次第に酒を飲んだりするようにもなった。
その頃出演バンドが解散になり、例の楽器屋に後の八木山合奏団のメンバーとなる人間も集まるようになって、僕の音楽の母体である八木山合奏団をみんなで結成した。当然勝美さんがリーダー的存在だった。
でそのあとの話は、僕のHPに詳しく書いてあるので割愛する。
八木山合奏団の詩は、勝美さんのものが多かった。
敏感で感受性が強い人だった。
詩がストレートに響く。
勝美さんと僕はよく、神、宇宙、霊、物の理、原因と結果などを論じた。
彼はこの世は修行の場で、死んでからこそが本当の世界だと言っていた。
釈迦と同じような考えだ。
僕も20年ほど前まではそう信じていが、今は死んだら無で、生きていてこそだと考えている。
勝美さんはバンドの集合時間にはよく遅れてきた。
来ない時もあった。
そうしているうちに鬱病を発症して八木山合奏団を去った。
とにかく明日演奏があるということを考えると、とても憂鬱になったらしい。
でも八木山合奏団がクラウンレコードに移籍してから、また勝美さんの詩に曲をつけるようになり、また付き合いが始まった。
一時は和太鼓奏者になり、高橋快晴と称して演奏活動もしていた。また去年まで地元FMの番組もやっていた。
このところずっと入退院を繰り返していた。コロナ禍もあり最後に会ったのは、入院中の病室だった。3月末だったと思う。
7/16に亡くなったという連絡を奥さんから受けた。
坊さんのいない火葬場で彼の骨を拾った。
彼の遺言だった。
蒸し暑い日だった。
何だか勝美さんが死んだ気が全然しない。
やはりあの世とやらで、生き生きとして暮らしているのかもしれない。
そんな気がしてきた・・。
有難う!バイクとビートルズが大好きだった勝美さん。
本当に早いものですね。
私も同じです。
生きてこそ、の考えです。
父の思想を批判するわけではなく
生きているあいだになにができるか
なにがしたいか、が大事だと
父を見て学んだことがたくさんあります。
しかしながら、
父が生前に遺したものは
娘からしても、いまだに臨場感を感じたり、感動することがたくさんあります。
コロナが落ち着いたら、
可能な限りで
八木山合奏団のライブが観たい、
と強く思う毎日です。
同じだね。生きていてこそだよね。
ただ、人それぞれ何らかの信念・思想があるから、僕も批判する気などは毛頭ないです。
勝美さんが生前よく言ってたのは、「俺らの歌は後から評価されっから、早すぎたんだべな」と。
そうなるよう、ずっと歌い続けるつもりです。
特にLOOPは。
コロナが落ち着いたら、勝美さんを偲んで八木合奏団のライブをしようという話はしています。
期待しててください。
では、お姉さんと一緒にお母さんを支えてください!
幼少期からの父の教えをベースに生きてきて、
そしてその父が居なくなり。
…寂しさ虚しさとはまた別に、
土台が全てさらわれてしまった気がして
父が亡くなってから
自分がよくわからない状況に居たときに
このブログを読んで
驚くほど、ブログの言葉がストン!と落ちました。
そうだよね、生きてこそなんだよね、と。
八木山合奏団の、父の追悼ライブの話が出ているだけでも
それは生き甲斐です。
早くコロナが落ち着いて、
ライブがあれば
息子を連れて行きたいです。
合奏団メンバーJr.にも久しぶりに会えたら嬉しいなぁ!
私の夫は、父が合奏団リーダーであることが誇りだと言っていました。
仕事柄、60代の方と話す機会が多く、八木山合奏団の話をすると
もちろん皆さん知っていて
そのたびに嬉しくなるそうです。
私は、父とは親子なので
全てが誇りとは言い切れないのが寂しいところですが(笑)、
夫のその単純で純粋な気持ちは
とても嬉しいです。
あ、それから!
稲垣潤一さんの「闇を叩く」の文庫本を読みました。
当時のことが、自分が見たことのように容易に想像出来る描写で、本当に面白かったです。
でも、黒津さんホームページの、
八木山合奏団の歴史が一番面白いです。